青山繁晴 インサイトコラム 2015年7月22日(水)の音声です。
独立総合研究所社長の青山繁晴氏が、
気になるニュースについて解説しています。
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今回は、硫黄島を訪問した時のお話です。
青山繁晴氏は、夏場になると、気温90度を超える過酷な環境で立てこもり
米国軍と戦った英霊の貴い犠牲の上に立って
今の日本人が生きていることを忘れては成らないと語っています。
また、未だに英霊の遺骨が半数以上収集できていない現状を憂いています。
■コラム内容
・ 硫黄島の戦い~日米の決戦場となった地獄の島~
戦局も押し迫った1945年、2月16日の早朝。
大平洋上に浮かぶ空母バンカーヒル上で、
上陸作戦の総指揮官、ホーランド・M・スミス中将は沈欝な気持ちで
双眼鏡を覗いていた。
彼の視線の先には左端に小高い山があるだけののっぺりとして殺伐とした
小島が映っていた。
それは最も幅の広いところでも3キロほどで長さ7キロ足らずの豆粒のような
孤島であった。
この取るに足らない小島は、東京から南へ1000キロほど行ったところにある
硫黄島(いおうとう)という火山島で、当時の航空機で
片道3時間ほどの距離にあった。
島の南部には標高169メートルの摺鉢山(すりばちやま)があるだけの
どこと言って特色があるはずもない何の変哲もない島である。
しかし、この島は今後ひと月の間、
太平洋戦争の行方を決める一大決戦場となる運命にあった。
全体が火山灰に覆われただけのこの島が、
なぜそれほど戦略上重要だったのだろうか?
【不思議館~大飢饉と大殺戮の恐怖~の記事より引用】
・遺骨収集、立たぬ見通し 硫黄島で今も1万柱超が不明
太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)で21日、
日米合同の追悼式(日米の硫黄島協会主催)が開かれた。
戦後70年を迎える今も、
日本人死者の半数にあたる1万柱以上の遺骨が見つからない。
これから多くの遺骨が見つかる見通しもたっていない。
追悼式は戦後50年の1995年に始まり、
2000年からはほぼ毎年開かれている。
戦闘から70年の今年は、閣僚として初出席した塩崎恭久・厚生労働相、
中谷元・防衛相ら、日米から計約550人が出席した。
式典で、硫黄島の戦いに参加した米退役軍人のスノーデン氏は
「遺族に深く残された傷痕は、日米双方から数千もの戦死者を出した
この島での熾烈(しれつ)な戦いを思い出させる。
私たちは今後も永遠に追悼する」。
硫黄島の戦いを率いた栗林忠道中将(後に大将)の孫で
遺族代表の新藤義孝前総務相は「平和と繁栄が多くの英雄たちの
尊い犠牲の上に築かれたことを心に刻む」と述べた。
【朝日新聞記事より引用】
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